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歩行器で満足げ

 私が子どものころは、10人近い大家族で暮らしていました。叔父や叔母も一緒に住んでいましたし、曽祖父も私が幼稚園のころまで健在でした。曽祖父の思い出といえば、夏の夕暮れ時に縁側でビールを飲んでいる姿です。私が3歳くらいだったでしょうか。私のなかで一番古い記憶の断片で、生きている祖父はその一場面しか思い出せません。曽祖父の臨終の時、蝋燭の明かりの中で脱脂綿に水を含ませて口唇を湿らせてあげたことは、はっきりと覚えているのに。
幼稚園は越谷幼稚園へ通いました。父母は幼稚園なんて頭に無かったらしく、募集が終わってから慌てて探したためか、5歳なのに年中の白バラ組に入園しました。お蔭様で、クラスの皆より1年早く繰り上げ?卒業させられてしまいました。当時は、大袋駅まで幼稚園バスが来ていましたが、私はバスが大嫌いで泣いて騒いだため、当時は市役所に勤めていた祖父が自転車に乗せて、毎日送ってくれました。これは内緒ですが、幼稚園ではスカートめくりが得意な悪ガキでした。

曾祖父と一緒に

私が小学生のころは、あぜ道には牛が寝そべって草を食み、秋には赤とんぼが空をおおうばかりに飛んでいました。田植えの手伝いもしました、半分邪魔だったかもしれませんが。
今の千間台西地区は一面の田んぼと沼地で、大道新田といいました。冬枯れの田んぼで、野球をやった記憶があります。大袋小学校は私が入学したときには3クラス、でも卒業するときには6クラスに増えていました。一番遠い友達は、恩間新田から歩いて通っていましたっけ。大袋小の体育館で校歌を歌って卒業したのは、私達が初めてです。






男兄弟3人の長男です

中学校は浦和市立岸中学校に進学しました。当時は武蔵野線も無く、西中学校のそばのバス停から国際興業バスに乗り浦和駅まで通っていました。当時は、夜ともなれば我が家からバス停までの道は真っ暗で淋しく、冬の帰りなどは知ってる限りの歌-ほとんどが、アニメの主題歌でしたが-を歌いながら自転車を懸命にこいで、家路を急いだものです。2年生の時には武蔵野線が開通し、3年生の時には新越谷駅が開設され、まさに埼玉県の東西交通の黎明期を体験いたしました。


中学校入学。制服はブカブカでした

中学では宇宙船研究部に所属し、金属製のペンシルキャップに卓球部からもらってきた割れたピンポン玉を詰め込み、ミニロケットを作製するという怪しげな研究に没頭していました。顧問は教頭先生だったと思いましたが、一回も来た事なかったかも。必修クラブは卓球でしたので、燃料補給に一役買ってもいました。

ご挨拶経 歴現 在趣 味少年時代

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